雛祭り・インパール訪問 [旅は道連れ世は情け]
かつての職場の大先輩・元社長のテルさんとマニプール州に実地踏査。
今回の訪問目的はインド北東部-ミャンマー間の道路事情と
社会環境調査だが、個人的には他の目的もある。
ここは第二次世界大戦中に日本軍の到達した最前線である。
妻の祖父も世に言うインパール作戦で亡くなったという。 補給が無い負け戦の
混乱の中で所属部隊はほぼ全滅。遺骨や遺品など帰って来ようもなく、
彼のなきがらは今もこのインドミャンマー国境の大地のどこかにあるはずだ。
遺骨代わりに戦死公報の紙をお墓に納めたあと、若くして遺された妻の祖母は
一旦嫁に出たからには比較的裕福だった実家の世話にはなりたくないと
大分大学の学生寮の寮母さんとして働き始め、二人の子供を育てたのだという。
娘時代は常盤のデパートの裏のお屋敷で蝶よ花よと育てられ、東京で女学校まで
出たが、戦争のおかげで苦労の多い人生を送った祖母も数年前に他界した。
誰に知られる事もなく死んでいったであろう妻の祖父の最期の地へ行って
弔意を表す事もできれば行いたいと思っていた。
一昨年まではこの州を含むインド東部四州は治安と民情が悪くて外国人の
立ち入りには制限がかけられていたのだが、社会の安定と共に一般外国人にも
開放されることとなった。
デリーからインパール行きの一番機はエアインディアである。
朝の7時10分デリー発、途中アッサム州のバグドグラ空軍基地上空、
そしてグワハティ空港を経由してインパールまで3時間20分。
ネパール側の雲の上に頭を見せるカンチェンジュンガが懐かしい。
20年前のIndian Airwaysの頃のそれとまったく変わらない朝食も懐かしい。
20年以上寸分違わぬ同じメニューを出し続けるこのセンス。
インド5000年の歴史の上ではわずか一瞬のことかもしれないが。
着いた。
雛祭りのこの日、気温は18度。 気持ちのいい涼しさ。
車をチャーターしてホテルに向かい、荷物を降ろし、
すぐさま南西部40kmほどのロクタク湖へ向かう道路の調査。
道は悪くない。
途中警備の兵士が歩哨に多く立っている。
独立地下運動のせいか治安は良くないらしい。
1時間10分ほどで風光明媚な湖へ。 ここは日本陸軍が通過した地。
湖水に漁師が水草を利用した浮島をたくさんつくる、少し不思議な眺め。
でもこれらの設置は環境破壊だということで島の取り壊し工事も進められていた。
展望台では我々と同じモンゴロイドなマニプールギャルが写真を撮る。
巻きスカートが可愛い・・・
この湖から車で10分でINA戦争博物館があり、立ち寄ることに。
構内にはシンガポールにあるINAの顕彰碑のレプリカと当時のトーチカがあった。
博物館に行く道でチャンドラスバスボースの立像が迎える。
このおじさんについては良く知っている。
INAとはIndian National Armyの略。 ボースはシンガポールでINAを組織して
二次世界戦争中に日本を利用して英軍にインド解放独立の戦いを挑んだ。
彼らも日本軍と共にインパール、コヒマまで進軍した。
この博物館の学芸員、デリー大学卒業で2010年結婚、ムンバイにも学芸員
のトレイニーとして住んだ事があって、家は歩いて直ぐのところにあって、
今は2人の子供がいるという、なんかいい感じの女性、モニさんが
見覚えのある写真を見せてくれた。
お父さんが日本のここを訪れた時に撮ったのだという。
縁あってこの場所は良く知っている。ここでボースさんの法事にも
何回か出たことがある。この場所の住所を書いて彼女に渡したら喜んでいた。
このボースは新宿中村屋のカレーのボースとは違う人だが、この二人が
日本で会っている写真があった。
日本政府発行の100ルピー札。 軍票である。
これの発行分の金額も含めて日本は戦後賠償しなければならなかった。
負ける戦はしてはならない。
ここから30分ほど戻った傍には日本軍のまさに最前線到達地である
激戦の場所に慰霊碑が建てられている。
この慰霊碑の後ろに接してRed Hill(2928高地)という赤土の丘があり、
その上の英軍陣地を日本陸軍の33師団214連隊が最後の力を振り絞って
中腹に張り付いて攻め立てている時、英軍の増援部隊と戦車がやってきて、
日本軍は山麓と山頂から挟撃され1個大隊がほぼ壊滅、その後近くの
村落に後退して最期の抵抗をして全滅したのだという。
この地で傷つき、死んでいった日本兵に村民は
「我々の為の独立戦争を戦ってくれてありがとう」と
感謝と慰霊の念をこめてこの碑を建立したとのこと。
朽ち果てた75㎜速射砲(山砲)も傍らに。
触れても重くてまったく動かない。
こんなに重いものを分解してここまで馬と人力で持ってきて・・・
思わず可哀相で泣きそうになって合掌。
英霊の碑も裏に回れば今は愛に満ちている。
今宵は歌垣があるというので多くの若い男女が近くを通る。
ここはこの地の人のもの。 日本軍の全滅の悲しい歴史をいつまでも
ひきずってはいけない。 これでいいのだ。
博多の人だってもっと悲惨であっただろう元寇の歴史を
いつまでも引きずってはいない。
中洲の照明はあくまで明るく賑わっているし、
長浜の屋台にはデカダンを感じる。
慰霊碑に御参りしてこの横にある日本国政府が三井建設に
発注して建てた平和公園に立ち寄る。
90年代まではインドで日系の土木建築といえば三井建設だった。
我々も一緒に放送大学を建てたっけ。設計は山下設計さんだったな。
ここは日本政府がマニプール州に管理を委託しているとのことだ。
掃除はされているがどうにも味気ない。
コンクリの壁も薄汚れていてあまり感心しない。
奥には三つの石が。
インドと日本と英国を象徴しているという。
ホテルに戻る。
町は荒れていて夕方のそぞろ歩き、という感じではない。
AK構えた兵士が至る所に立っていて治安の悪い感じもするので
仕方なくそそくさ戻って明日の支度をしながら持参のワインを
飲んで寝るかと思ったが、先輩の血が騒ぐらしく、
他のホテルで夕食を食べて飲むことにした。
インドの東の端に近いのでインド標準時の8時過ぎだと真っ暗。
その中をどうにかリキシャーを拾って教えてもらったホテルへ。
クラッシックホテルの従業員によれば、うまいご飯が食べられるのは
クラシックホテルのほかに3つだという。その筆頭として挙げてもらった
ところへ。
いやぁ、ビエンチャンの夜より暗い。
ご飯はこんなインドカレーと偽中華しか無かったが、
ニューデリー・ディフェンスコロニーのAKASAKAよりかは食べられる。
店の息子さんも一緒に夕飯。
勘定済ませて出るとありゃりゃ、暗い街が更に真っ暗。
ほぼ全て終了状態。
表通りに出て来る車来る車に手を振って10分ほど、何とか
乗り合いリキシャを捉まえて乗り込んで戻る。
明日はミャンマー国境まで行く。
朝早いのでシャワーを浴びて直ぐに寝る。
今回の訪問目的はインド北東部-ミャンマー間の道路事情と
社会環境調査だが、個人的には他の目的もある。
ここは第二次世界大戦中に日本軍の到達した最前線である。
妻の祖父も世に言うインパール作戦で亡くなったという。 補給が無い負け戦の
混乱の中で所属部隊はほぼ全滅。遺骨や遺品など帰って来ようもなく、
彼のなきがらは今もこのインドミャンマー国境の大地のどこかにあるはずだ。
遺骨代わりに戦死公報の紙をお墓に納めたあと、若くして遺された妻の祖母は
一旦嫁に出たからには比較的裕福だった実家の世話にはなりたくないと
大分大学の学生寮の寮母さんとして働き始め、二人の子供を育てたのだという。
娘時代は常盤のデパートの裏のお屋敷で蝶よ花よと育てられ、東京で女学校まで
出たが、戦争のおかげで苦労の多い人生を送った祖母も数年前に他界した。
誰に知られる事もなく死んでいったであろう妻の祖父の最期の地へ行って
弔意を表す事もできれば行いたいと思っていた。
一昨年まではこの州を含むインド東部四州は治安と民情が悪くて外国人の
立ち入りには制限がかけられていたのだが、社会の安定と共に一般外国人にも
開放されることとなった。
デリーからインパール行きの一番機はエアインディアである。
朝の7時10分デリー発、途中アッサム州のバグドグラ空軍基地上空、
そしてグワハティ空港を経由してインパールまで3時間20分。
ネパール側の雲の上に頭を見せるカンチェンジュンガが懐かしい。
20年前のIndian Airwaysの頃のそれとまったく変わらない朝食も懐かしい。
20年以上寸分違わぬ同じメニューを出し続けるこのセンス。
インド5000年の歴史の上ではわずか一瞬のことかもしれないが。
着いた。
雛祭りのこの日、気温は18度。 気持ちのいい涼しさ。
車をチャーターしてホテルに向かい、荷物を降ろし、
すぐさま南西部40kmほどのロクタク湖へ向かう道路の調査。
道は悪くない。
途中警備の兵士が歩哨に多く立っている。
独立地下運動のせいか治安は良くないらしい。
1時間10分ほどで風光明媚な湖へ。 ここは日本陸軍が通過した地。
湖水に漁師が水草を利用した浮島をたくさんつくる、少し不思議な眺め。
でもこれらの設置は環境破壊だということで島の取り壊し工事も進められていた。
展望台では我々と同じモンゴロイドなマニプールギャルが写真を撮る。
巻きスカートが可愛い・・・
この湖から車で10分でINA戦争博物館があり、立ち寄ることに。
構内にはシンガポールにあるINAの顕彰碑のレプリカと当時のトーチカがあった。
博物館に行く道でチャンドラスバスボースの立像が迎える。
このおじさんについては良く知っている。
INAとはIndian National Armyの略。 ボースはシンガポールでINAを組織して
二次世界戦争中に日本を利用して英軍にインド解放独立の戦いを挑んだ。
彼らも日本軍と共にインパール、コヒマまで進軍した。
この博物館の学芸員、デリー大学卒業で2010年結婚、ムンバイにも学芸員
のトレイニーとして住んだ事があって、家は歩いて直ぐのところにあって、
今は2人の子供がいるという、なんかいい感じの女性、モニさんが
見覚えのある写真を見せてくれた。
お父さんが日本のここを訪れた時に撮ったのだという。
縁あってこの場所は良く知っている。ここでボースさんの法事にも
何回か出たことがある。この場所の住所を書いて彼女に渡したら喜んでいた。
このボースは新宿中村屋のカレーのボースとは違う人だが、この二人が
日本で会っている写真があった。
日本政府発行の100ルピー札。 軍票である。
これの発行分の金額も含めて日本は戦後賠償しなければならなかった。
負ける戦はしてはならない。
ここから30分ほど戻った傍には日本軍のまさに最前線到達地である
激戦の場所に慰霊碑が建てられている。
この慰霊碑の後ろに接してRed Hill(2928高地)という赤土の丘があり、
その上の英軍陣地を日本陸軍の33師団214連隊が最後の力を振り絞って
中腹に張り付いて攻め立てている時、英軍の増援部隊と戦車がやってきて、
日本軍は山麓と山頂から挟撃され1個大隊がほぼ壊滅、その後近くの
村落に後退して最期の抵抗をして全滅したのだという。
この地で傷つき、死んでいった日本兵に村民は
「我々の為の独立戦争を戦ってくれてありがとう」と
感謝と慰霊の念をこめてこの碑を建立したとのこと。
朽ち果てた75㎜速射砲(山砲)も傍らに。
触れても重くてまったく動かない。
こんなに重いものを分解してここまで馬と人力で持ってきて・・・
思わず可哀相で泣きそうになって合掌。
英霊の碑も裏に回れば今は愛に満ちている。
今宵は歌垣があるというので多くの若い男女が近くを通る。
ここはこの地の人のもの。 日本軍の全滅の悲しい歴史をいつまでも
ひきずってはいけない。 これでいいのだ。
博多の人だってもっと悲惨であっただろう元寇の歴史を
いつまでも引きずってはいない。
中洲の照明はあくまで明るく賑わっているし、
長浜の屋台にはデカダンを感じる。
慰霊碑に御参りしてこの横にある日本国政府が三井建設に
発注して建てた平和公園に立ち寄る。
90年代まではインドで日系の土木建築といえば三井建設だった。
我々も一緒に放送大学を建てたっけ。設計は山下設計さんだったな。
ここは日本政府がマニプール州に管理を委託しているとのことだ。
掃除はされているがどうにも味気ない。
コンクリの壁も薄汚れていてあまり感心しない。
奥には三つの石が。
インドと日本と英国を象徴しているという。
ホテルに戻る。
町は荒れていて夕方のそぞろ歩き、という感じではない。
AK構えた兵士が至る所に立っていて治安の悪い感じもするので
仕方なくそそくさ戻って明日の支度をしながら持参のワインを
飲んで寝るかと思ったが、先輩の血が騒ぐらしく、
他のホテルで夕食を食べて飲むことにした。
インドの東の端に近いのでインド標準時の8時過ぎだと真っ暗。
その中をどうにかリキシャーを拾って教えてもらったホテルへ。
クラッシックホテルの従業員によれば、うまいご飯が食べられるのは
クラシックホテルのほかに3つだという。その筆頭として挙げてもらった
ところへ。
いやぁ、ビエンチャンの夜より暗い。
ご飯はこんなインドカレーと偽中華しか無かったが、
ニューデリー・ディフェンスコロニーのAKASAKAよりかは食べられる。
店の息子さんも一緒に夕飯。
勘定済ませて出るとありゃりゃ、暗い街が更に真っ暗。
ほぼ全て終了状態。
表通りに出て来る車来る車に手を振って10分ほど、何とか
乗り合いリキシャを捉まえて乗り込んで戻る。
明日はミャンマー国境まで行く。
朝早いのでシャワーを浴びて直ぐに寝る。
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